8月15日は65回目の終戦記念日を迎えました。終戦の玉音放送を聞いたのは、国民学校 1年生のときでした。疎開先の学校はすでに秋の学期が始まっていました。田植えと稲刈りには学校はお休みになりますので、夏休みは短かったのです。そのくらい、田植えや稲刈りは農家にとっての大事業であり、地域全体で農家を支えていたことがうかがわれます。もちろん疎開児童といえども田植えの手伝いをしました。
あの8月15日はいつもより学校が早く終わりました。大事な放送があるから聞きに行くようにとのことです。家族そろって行きましたのは村の農事会前の広場です。小さな丸いテーブルが外に置かれていてテーブル掛けの上に小さなラジオが乗っていました。
空襲で焦土となる前の東京では、ほとんどの家庭にラジオがあったのではないでしょうか。何を聞くのかというと空襲警報です。軍管区情報を臨時ニュースとして伝えるのがラジオでした。敵機編隊が相模湾上空を通過というのが決まり文句で、ラジオの放送と同時に上空にはすでに敵機が来襲しているのは常のことでした。
しかし、三重県の疎開地ではラジオありませんでした。ですから農事会前まで玉音放送を聞きに行ったのです。
今から考えると、それは大変なことだったに違いありません。昭和30年代でも県庁から市町村役場に電話して通じるまでに8時間はかかったのです。
戦争中は内務省と県庁の間は略号電報で連絡し、市町村と県庁の間もそうしたのではないでしょうか。ですから8月15日に玉音放送があることを国民学校にまで徹底するには内務省から2日ほど前に県庁に伝えていなければならなかったと思われます。玉音放送があることを 8月15日の朝までに国民学校に伝えられているということは、玉音放送をめぐるドラマがあったことを思い出すと、驚異的なことと言わなければなりません。
それほど苦労して実行された玉音放送ですが、全く聞き取れませんでした。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び」という部分だけは子どもにも聞き取れました。戦争に負けたというのは大人たちが、そうらしいと言っていたからです。
前線に兵士として駆り出された人たちだけでなく銃後の人たちの悲運を忘れてはいけない。それが終戦記念日の意義ではないでしょうか。 |