今年は古事記が成立して1300年を迎えますので、大和郡山市が中心となって奈良県と記念事業を計画しています。天武天皇が「帝王日継」と「先代旧辞」を選んで舎人であった稗田阿礼に誦習させ、それを30年後に元明天皇が太安万侶に編纂させたのが古事記とされています。
そこで、稗田阿礼と太安万侶ゆかりの地を訪ねてみました。まず、稗田阿礼のゆかりの地は、大和郡山市の稗田の環濠集落です。そこに鎮座している賣太神社のご祭神のうち主祭神が稗田阿礼命、副祭神が天鈿女命(あめのうずめのみこと)と猿田彦命ということで、毎年8月16日には阿礼祭が続けられてきました。
なお、天鈿女命は、天照大神が岩戸の中にお隠れになったときに、岩戸の前で踊りを踊り、その騒ぎに天照大神が岩戸をお開きになり世の中に明るさが戻ったと古事記は伝えています。また、猿田彦命は、ニニギの命が天からお降りになるときにお出迎えし、それが縁で猿田彦命と天鈿女命は夫婦になったと古事記は伝えています。
語り部としての稗田阿礼は、子どもたちにとっては童話・童謡の神さまであり、阿礼祭では「阿礼さま音頭」で子どもたちの踊りが奉納されます。
太安万侶のゆかりの地は、田原本町の多神社と奈良市田原地区の太安万侶墓地です。太安万侶は多氏の出で、太安万侶の時代に太氏を名乗ったといわれています。太氏の根拠地である田原本と墓地のある奈良市田原地区とはかなり離れていますが、地名に同じ「田原」とありますので多氏に関係のある土地であったのでしょう。
太安万侶の墓地が発見されたのは、1979年1月のことでした。現地には1981年11月に奈良市教育委員会が設置した「史跡 太安万侶の墓」という説明版があります。
それによれば、墳丘は直径4.5メートルの円墳と推定され、中心部に土壙を掘り、底に木炭を敷いて金銅製の墓誌を置き、その上に木櫃を安置し、四周と上面を木炭で覆った木炭槨であった。木櫃の中には火葬骨、真珠等が収めてあったと記されています。
土壙墓は縄文から弥生の時代に多い形式で、火葬も天皇に仕える役人の間で流行したといわれています。真珠は、あこや真珠で4個あり、霊力をもつとされていたようです。
今年は、古事記に書かれていることに触れる機会が増えるはずです。そんな余裕をもちたいものです。 |