五月なのにまるで梅雨のような天気が続いていますが、いかがお過ごしですか。
今回のテーマー「あらためて顔真卿に学ぶ」
今年は日中国交30周年の年にあたり、記念事業として、五月のはじめには中国から5000人の中日交流観光団が日本をおとずれました。私も一行の代表団との歓迎会に招かれ、広東省の代表の鄭さんという方と同じテーブルになりました。この鄭さんのネクタイがたいへんにめだちます。赤地に白抜きで漢字が書いてあります。書体は行書で、その字には見覚えがあります。「魯郡開国公顔真卿」が「右僕射定襄郡王郭公に謹んで書を奉じる」と読めましたので、「顔真卿ですね」と申しましたら、鄭さんは誇らしげに「顔真卿です」とうなずかれました。
さらに「顔真卿の争座位稿であったかどうか、と思いますが」と申しましたら、鄭さんはネクタイの裏を確認して紙に「争座帖」(争座位稿の別名)と書いてくださいました。
顔真卿の「争座位稿」は、書道の世界で行書の手本とされてきたもので、鄭さんはおそらく、日本にも通用する文化を共有していることを示し、話題を提供するために、顔真卿のネクタイを締めて来られたことと思われ、観光交流事業への強い意気込みを感じました。
ところで、顔真卿は能書家として名が通っていますが、私は、頑固に筋道を守る剛直な彼の人間性にも注目してほしいと思います。それを示しているのがこの争座位稿なのです。これはもともと、顔真卿が郭公にあてた抗議文の草稿であり、安禄山の乱の平定に功績をおさめた宦官魚朝恩にへつらい、郭公が儀式で官中序列をみだして魚朝恩の座席を不当に上席にしたことに対して抗議しているものなのです。
唐の玄宗皇帝の晩年に安禄山が反乱を起こしてからというもの、宮中では「礼」にかまっていられない事態となっていたことに対して顔真卿はだまっていられなかったのです。
安禄山は本拠地の河北で反乱を起こしました。当時顔真卿は安禄山の口添えもあって河北の平原郡の太守でありました。安禄山は河北に自信をもち、河北から洛陽、長安へと勢力を伸ばしていきました。その河北で、世話になった安禄山に反抗して、玄宗皇帝に忠義を尽くして抵抗活動を展開した中心人物が顔真卿でした。その理由は安禄山が粗暴であったこともあったでありましょうが、むしろ平原郡の太守は唐の皇帝により任じられたとの筋論にあったと思われます。
唐は玄宗から粛宗へ、そして徳宗へと受け継がれ、顔真卿も役職を歴任していきますが、周囲から「立派だが適当とは思われない」剛直な意見が受け容れられず、不遇でありました。
顔真卿の最後となった任務は75歳、徳宗皇帝の代に、わい西節度使の李希烈が反乱を起こしたのにさいし、時の宰相ろきが、顔真卿を除こうとして李希烈を説得する宣慰使の役を与え、家族の反対にもかかわらず顔真卿は死地に向かいました。李希烈は顔真卿を惜しみ2年間拘束の末、殺害いたしたのであります。
5月8日のしん陽領事館事件で中国の行ったことは国際法上許されることではありませんが、その後の中国側の対応にはかの国の伝統から来る「したたかさ」のようなものが見受けられます。これに対して、日本の外務省の対応は、領事館主権を守るという筋を通すことを忘れ、事件発生直後からその後の高いレベルでの交渉に至るまで軟弱そのもので、まさに顔真卿の姿勢に学ぶ必要のあることを感じます。
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