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通算29号
平成19年8月15日

国家と犠牲

 63回目の終戦の日を迎えた。あらためて今日の日本の平和と繁栄が戦没者の犠牲の上にあることに感謝しなければならないと思うのは自然な気持ちであろう。

 ところが戦没者の犠牲があったから日本の平和と繁栄がもたらされたわけではないと高橋哲哉さんは「国家と犠牲」で述べている。無謀な戦争がなければ戦没者を出さなくても平和と繁栄を享受することができたろうし、国家はそのような選択をすべきだという。

 戦没者の尊い犠牲に敬意と感謝の気持ちを忘れないのは当然であるが、それによりけじめをつけておくべき重大な問題が片付いたのではない。戦後62年、戦没者への追悼に目を奪われて、無謀な戦争についての責任問題を放置してきたのではないか。東京裁判を批判し、パール判事を評価するならば、無謀な戦争の責任はどこにあるのかを国家として明らかにしておく必要があると思う。

 久間防衛庁元長官の原爆しょうがなかった発言が問題になったが、これは広島や長崎への原爆投下の正当性を主張する米国に理解を示したのが原因だ。その背景には非戦闘員への無差別攻撃の違法性よりは戦争の犠牲者をどう考えるのかの問題が優先しているようだ。4年前の有事法制に関する国会審議における久間元防衛庁長官の見解を高橋さんは「国家と犠牲」のなかで紹介している。

国家の安全のために個人の命を差し出せなどとはいわない。が、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る(朝日新聞、2003年6月30日)。

 核兵器の問題と自衛のための武力行使との違いはあるものの、武力衝突には犠牲が伴うことは当然覚悟すべきことを前提として国会審議が行われている。したがって専守防衛の自衛隊の行動であっても犠牲を前提にしており、犠牲を求めるだけの差し迫った正当性があるかどうかの判断を国家が行っているかどうかを国民が監視する必要があるのだ。

 それにしては現在の自衛隊の行動に対して、国会のコントロールが十分ではないことが問題だ。シビリアン・コントロールは議会制度の根幹であるにもかかわらず、日本では防衛省事務官による自衛隊制服組のコントロールか、せいぜいのところ文民である大臣によるコントントロールか、に過ぎないのが実態である。シビリアン・コントロールとは本来の意味の国会による自衛隊のコントロールであることを確立する必要がろう。そうでなければ内閣の暴走による犠牲を防ぐことができないからだ。

 



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