クリスマスにはディケンズの「クリスマス・カロル」を読もう
ディケンズの「クリスマス・カロル」を翻訳した村岡花子さんは新潮文庫の「あとがき」で「毎年クリスマスがめぐって来るごとに私はディケンズのクリスマス・カロルを読む」と記しています。
19世紀のロンドンはイギリスの全盛時代を謳歌していた街でありながら、貧困者が集まる街でもあった。その街で金貸しを営むスクルージは、ビジネスはビジネスだとどこまでも割り切る。そこには契約が全てで個人感情をはさむ余地はない。使用人には約束の給金を渡し、何年たっても金額を上げるつもりはない。税金を払っているのだから慈善募金などは真っ平。貸した金は約束に従って取りたてる。金を惜しんで結婚せず、クリスマスを祝うことも無駄だという吝嗇ぶりだ。
そのようなスクルージがクリスマスイブの夜、自分に関わりのある人たちの家庭でのクリスマスを祝う姿を3人の幽霊に次々に見せつけられる。最後に、誰にも看取られずに死に、死の寝台のカーテンや毛布までが盗み出されて売り飛ばされる自分の将来の光景を見せつけられて絶望し、これまでの生きざまを悔しゅんする。
困っている人に親切にする。人の親切をすなおに受け入れる。そこに救いがある。貧しい家庭から身を起こし、職を転々としてきたディケンズが語ってみせる光と影に読者も満たされるというものだ。
経済恐慌とも言える日本の現状をみて思い知らされるのは、人を使い捨ての道具として考えている日本の風潮だ。企業が収益を挙げるだけ挙げておいて、都合が悪くなれば非正規職員からまず解雇し、その後の身の上を省みずにビジネスはビジネスだと極め込んでいるのは悔しゅんする前のスクルージの世界そっくりではないか。
しかも、退職一時金がなく雇用保険の適用もないままに放り出されるのに慈善募金をする人が街に見当たらないのは、ディケンズが描きだした時代よりも救い難い。後の面倒は国民の税金で見なければならないというのでは、悔しゅんする前のスクルージの考えた国家の役割そのものだ。
クリスマスには村岡花子さんに見習って、昔、高校の英語の時間で勉強したディケンズの「クリスマス・カロル」を思い出して読んでみよう。現在の日本の深刻な事態に気づくはずだ。

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