大井造船作業場を見学
平成18年2月22日

 大井造船作業場といっても分かりにくいでしょう。高杉 良の「小説 会社再建」には「友愛寮」として登場するので、この寮のほうが知られているかもしれません。愛媛県今治市の新来島どっく大西工場の中にあるのです。正式名称は松山刑務所大井造船作業場。塀のない刑務所として世界に1つしかありません。 45 年前の昭和 36 年に来島どっく坪内寿夫社長が大西工場を新設するときに、松山刑務所の構外泊まりこみ作業場として木造平屋建ての大井作業場を開設したのが始まりという。現在の寮舎は鉄筋 5 階建て92名収容、トイレと大浴場は大理石張り。この大理石はホテル奥道後から移したのでしょうか本物です。

 寮の出入りは自由で部屋にも鍵がなく、刑務所の作業員は大西工場で一般従業員と一緒に作業します。作業の姿を見ると、溶接であれば300m 2 ほどの持ち場をたった一人で受け持っていて、工場の職長の管理のもとにあり、刑務所のスタッフは広い工場内を自転車で巡回して作業を掌握しているとのことです。

 松山刑務所では来島どっくの坪内寿夫社長を坪内先生と呼んでいますので、先生のことを紹介します。先生は、再建王と呼ばれるように多くの経営難の会社を再建してきました。佐世保重工、関西汽船、神戸のオリエンタルホテルなどです。会社再建に流れるのは、「率先垂範」、「奉仕の精神」、「人間愛の大切さ」を旨とする「坪内イズム」だと、「小説 会社再建」の著者の高杉 良は指摘しています。

 その再建王も 50 年代の造船不況に巻き込まれて来島どっくの経営危機を招きました。先生が病気加療中のことです。副社長以下の責任とはいえ先生は責任を取り、会社再建に提供した個人財産は 280 億円。住むところを除き財産をすべて整理したといいます。

 ここで松山刑務所の尾上一水所長がいっていたことを紹介しましょう。「坪内イズム」の背景は「義農 作兵衛」だというのです。作兵衛は愛媛県の松前町 ( まさきちょう ) に生まれ、元禄から享保にかけての農民です。

 享保 17 年、愛媛県は洪水と害虫の異常発生により農作物の収穫がなく飢きんに見舞われ、多くの死者をだしました。作兵衛も空腹で麦畑に出て麦まきの準備に取り掛かろうとして倒れます。近所の人たちは種麦を食べるようにすすめますが、作兵衛は「穀物の種は命より大切」といって餓死しました。地域活性化センターの「伝えたいふるさとの100話」には作兵衛のことばを次のように伝えています。

 「穀物の種をまいて収穫を得て、税として納めるのは農民の務めです。収穫した作物を国に納めるから国の人々は生活ができるのです。だから穀物の種子は、自分の命以上に貴重なものなのです。今もしも、私がこの種麦を食べて数日の命をつないだとしても、来年の種麦をどこから得ることができるでしょう。たとえ私が飢えで死んだとしても、この種麦によって何万という命を救うことになれば、もとより私の願うところです。」

 坪内寿夫先生は、作兵衛と同じ松前町の出身で、よく作兵衛の話をされていたということです。

 坪内先生が倒産しかかった会社の再建に命を懸けてきたのは、会社を潰せば従業員が泣き、家族が泣き、地域が泣くことになるのを避けたいとの一念からでしょう。それなのに来島どっくが経営危機に見舞われようとは思いもよらないことだったはずです。その来島どっくが新来島どっくとして立派に立ち直り、大西工場で松山刑務所の作業員が一般従業員の中で作業させてもらっている姿をみたときには、新来島どっくに感謝の念で一杯になりました。なお、先生は、多くの役職を退かれた後も、亡くなられるまで愛媛県更生保護会の理事長を勤められ、犯罪者の社会復帰を願い続けられたとのことです。