ポーランドの国民投票
平成18年8月1日
平成18年8月1日

平成18年7月16日から7月29日まで、欧州(ポーランド共和国、イタリア共和国、デンマーク王国、エストニア共和国)に海外視察に行ってきました。その際、見て・聞いてきたことを、何回かにわけて報告します。

ポーランドの国民投票

衆議院憲法調査会の視察で7月16日に出発して欧州に来ました。最初の調査地のポーランドで聞いたことを報告します。
ポーランドのマゾヴィエツキ元首相(前列右から3人目)を囲んで(日本大使公邸で)

  ポーランドが共産主義体制から民主主義体制に転換したのは1989年。1989年1月に共産党が政治的多元主義と労働組合複数主義を容認する決議をしたのに引き続き体制側(共産党)と独立自主労組「連帯」を中心とする反体制側との円卓会議による交渉が行われた。この結果、議会選挙が行われ、上下両院560議席の半数に近い260議席を「連帯」側が獲得。選挙後の議会で共産党側のヤルゼルスキ大統領を選出。その直後共産党は多数派工作に失敗して少数党に転落。「連帯」のマゾビエツキを首相とする大連立内閣が発足。東欧で初の非共産党系内閣が誕生した。この後、大統領も首相も連帯系と共産系が交互に交替し、現在は連帯系のカチンスキ大統領のもとに双子の弟が首相に就任したところ。

 ヤルゼルスキ大統領に替わって就任した連帯系のワルサ大統領の時代の1992年に暫定憲法としての小憲法を制定したが、ワルサ大統領は議会と対立して法案に対して拒否権をたびたび発動したため、議会の憲法委員会は大統領の権限を縮小する方向で憲法改定作業を進めてきた。1995年の大統領選挙で憲法委員長のクワシニエフスキがワレサを破り、1997年に大憲法と呼ばれる新憲法が制定された。この新憲法制定には国民投票が実施され、連帯は投票のボイコット運動を展開したが、カトリック教会は投票を呼びかけ、その結果、奇跡の妥協と呼ばれる新憲法制定を国民が支持することになった。

 ポーランドでは2人集まると3つの政党が生まれるといわれるほど党派に分かれて対立する。その国が1989年の円卓会議、1992年の小憲法、1997年の大憲法では対立を超えて大きな妥協を成立させてきた。特に1997年の大憲法草案には各政党やカトリック教会の主張を憲法に取り入れ、妥協案の作成の推進力となってきたマゾビエツキ元首相、グレメク元外務大臣、ボロフスキ元下院議長、ボルセビッチ上院議長と大使公邸での懇談に立ち会えたのは幸運であった。小森田秋夫著「ポーランド:妥協を促し対決を演出」でポーランドの国民投票の事情が記されている。

  なお、ワルシャワで悲しいニュースを聞いた。関西テレビが数年前に放映した「ワルシャワの秋」を見た方も多いと思う。これはロシア革命の直後、多くのポーランド人がシベリヤへ送られ、両親と死に別れた子供たちがそこで倒れていった。これを日本の赤十字が日本に引き取り本国へ無事に送り届けた物語だ。その子供たちも高齢により他界し、最後の1人のリロさんがこの7月9日に亡くなったという。リロさんたちは阪神大震災で希望を失った子供たちをワルシャワへ呼んでくれたことを忘れてはならないと思う


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